日本の言語教育に思う

 (略)この「日本語特区」をひきあいにだしたのはほかでもない、3年後に日本の小学校高学年で英語を必修にする、ということが決定されたからだ。わたしの意見では小学生に英語を教えるなどというのは正気の沙汰(さた)ではない。母語である日本語の基礎がちゃんとできてから外国語を勉強するのならはなしはわかるが、日本語の語彙(ごい)が貧困で、敬語も使えず、なにをきいても「すごーい」「おいしいー」のほかに自己表現の言語をもたないこどもに英語を教えてなにになるのか。日本語の表現力のない人間が英語でなら表現できるというのであろうか。とんでもない。

母語ととのっての外国語

 英語は幼児期からやっておいたほうがいい、という教育学者や教育ママがいる。これもマユツバである。論者はピアノ、バレエその他の技芸を例にあげて幼児教育の利点を説く。英語もおなじだ、という。だがこれはまちがっている。ピアノ以下、お稽古(けいこ)ごとを3歳、5歳からはじめるのは、あれが「芸」であり「技術」であるからだ。しかし言語というのはむずかしくいえば概念操作であり、思想である。ここらをごちゃまぜにしてはいけない。

 くりかえしていうが、母語がととのってからの外国語である。母語のタドタドしい人間が外国語に流暢(りゅうちょう)でありうるはずがあろうか。

 わたしはかねてからテレビ画面にでてくるタレント諸氏はもとよりアナウンサー、解説者、そしてその原稿や字幕をつくっている関係者の見るも無残、聞くも不快な「日本語力」に呆然(ぼうぜん)としている者である。せめて次世代のこどもにはまともな日本語を勉強してほしい。

 だから、英語を小学生に、というのはおヤメなさい、とわたしはいうのである。そのかわりにちゃんと母語たる日本語教育を充実すべきだ、と主張するのである。

 小学校英語はかならず失敗する。いったん決まったものは変えられない、などとおっしゃるな。あれやこれや法律をつくってはそれが矛盾破綻(はたん)して「見直し」に明け暮れているのが現状ではありませんか。将来、「見直し」作業をなさらぬよう、「日本語特区」という野心的なこころみを対極に置いてしたためた。

http://sankei.jp.msn.com/life/education/081105/edc0811050303001-n1.htm

 (略)またグラッドル氏は「英語に接する環境を作ってやるのはよいが、5、6歳から英語を無理に教えると、子どもが意欲を失う」とし「子どもが英語をなぜ学習しなければならないのかと自然に悟ったときが英語教育に最も適した時期」と話す。

(こちらは韓国のニュースだが)
http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=106848

 津田梅子とか日本語忘れちゃったし、ジョン万次郎もそもそも日本で教育を受けていないから難しい翻訳ができなかったみたいね。まずは論理的な考え方を身につけるべきだ。できれば日本人としてのアイデンティティや教養がほしい。
 ところが、小中学校の今の教科書、ご覧になった方はいますか。斎藤孝が「文明国のものとは思えない」と言っていますが、ぜひとも。
 塾や予備校に行ってる生徒はばりばり勉強して有力なところに進学する一方、古典や日本史も勉強せずに四大に進学したり。「学力なんかいらない」という若い人も多い。二極化もいちじるしい。
 ちょっと前に年配の方と「愚民化政策を進めている人がいんじゃないですかね。そうすると得する人たちがいるじゃないですか」と冗談で話していたら、真顔で「なに、今頃気づいたの?」との返事。
 悪い冗談であってほしいが・・・。