藍より青し

 誰にも直接にしろ間接にしろ、先生がいるわけで、辿っていくといくらでもさかのぼることができる。
 青空文庫菊池寛蘭学事始を読む。杉田玄白前野良沢オランダ語通詞の西善三郎に会うシーン。

 その日も、彼は皆が来ない前、特に良沢の来ない前に、自分一人で善三郎に会いたかったのである。彼はオランダ文字を読もうという自分のかねてからの宿願を述べて、その志願の可能不可能を、善三郎にただしてみたかったのである。
 そのために、昨日より半刻も早く来た玄白には、良沢が自分よりも早く来ていたことが、かなりの打撃だった。
 が、彼は良沢にかまいすぎる自分の心持を恥じた。彼は、良沢ただ一人しかいないのを幸いに、自分の素志を述べてみた。
「西氏! 今日は、ちと御辺に折り入ってお尋ねしようと思うことがござるのじゃ、それは余の儀ではござらぬ。総体、オランダの文字と申すものは、われら異国の者にも、読めるものでござろうか。それとも、いかほど刻苦いたしても読めないものでござろうか。有様(ありよう)にお答え下されい。われら存ずる子細もござるほどに」
 玄白の問いには、真摯な気が満ちていた。西は玄白の熱心を嘉(よみ)するように、二、三度頷いた。が、彼の与えた答は、否定的だった。彼は、西海の人に特有な快活な調子で答えた。
「さればさ、それは、三、四の方々からも尋ねられたことでござる。なれど、われら答え申すには、ただ御無用になされと申すほかはござらぬ。いかほど辛労なされても、所詮及ばぬことでござる。有様(ありよう)を申せば、われら通辞の者にても、オランダの文字を心得おるものは、われら一両人のほかは、とんとござらぬ。余の者は、音ばかりを仮名で書き留め、口ずからそらんじ申して、折々の御用を弁じておるのでござる。彼(か)の国の言葉を一々に理解いたそうなどは、われら異国人には、所詮及ばぬことでござる。例えて申そうなら、彼(か)の国のカピタンまたはマダロスなどに、湯水または酒を飲むを何と申すかと、尋ね申すには、最初は手真似にて問うほかはござらぬ。茶碗などを持ち添え、注ぐ真似をいたし、口に付けてこれはと問えば、デリンキと教え申す。デリンキは、飲むことと承知いたす。ここまでは、子細はござらぬ。なれど、今一足進み申して、上戸と下戸との区別を問おうには、はたと当惑いたし申す。手真似にて問うべき仕方はござらぬ。しばしば、飲む真似をいたして、上戸の態(さま)を示し申しても、相手にはとんと通じ申さぬ。さればじゃ、多く飲みても、酒を好まざる人あり、少なく飲みても好む人あり、形だけにては上戸下戸の区別は、とんとつき申さぬ。かように、情(じょう)の上のことは、いかように手真似を尽くしても、問うべき仕方はござらぬ」
「なるほどな。ごもっともでござる」
 玄白も、相手の返事の道理を、頷かずにはおられなかった。
 玄白が、首肯するのを見ると、西はやや得意に語りつづけた。
「オランダの言葉の、むつかしき例(ためし)には、かようなこともござる。アーンテレッケンと申す言葉がござる。好き嗜むという言葉でござるが、われら、通辞の家に生れ、幼少の折より、この言葉を覚え、幾度となく使い申したが、その言葉の意(こころ)は、一向悟り申さなんだところ、年五十に及んで、こんどの道中にてやっと会得いたしてござる。アーンは、元という意(こころ)でござる。テレッケンとは、引くという意(こころ)でござる。アーンテレッケンとは、向うのものを手元へ引きたいと思う意でござる。酒を好むとは、酒を手元へ引きたいという意でござる。故郷をアーンテレッケンするとは、故郷を手元へ引き寄せたいほど、懐しむという意でござる。かように、一つの言葉にても、むつかしきものにござれば、われらのごとき、幼少よりオランダ人に朝夕親炙(しんしゃ)いたしおる者にても、なかなか会得いたしかねてござる。いわんや、江戸などにおわしては、所詮叶わぬことでござる。ご存じでもござろう。野呂玄丈殿、青木文蔵殿など、御用にて年々当旅宿へお越しなされ、一方ならず御出精なされても、はかばかしゅう御合点も参らぬようでござる。其許(そこもと)も、さような思召立(おぼしめしだて)は、必ず御無用になされた方がよろしかろう」
 西は、自分自身も、とっくに諦めきっているようにいった。
「なるほど、道理でござる」
 玄白も、そう答えるほかはなかった。相手がしきりに止めるものを、強いて学習の方法などをきくわけにもいかなかった。
「なるほど、大通辞の御辺が、さように思うておらるることを、われらがいかように思い立っても、及ばぬことでござる。所詮は、思い切るほかはござらぬ」
 玄白が、何気なくそういった時だった。今まで黙って、西と玄白との問答をきいていた良沢が、急に口を挟んだ。
「いや、御両所のお言葉ではござるが、われらの存ずる子細は別じゃ。およそ、紅毛人とは申せ、同じ人間の作った文字書籍が、同じ人間に会得できぬという道理は、さらさらござらぬわ。われらが平生読み書きいたしおる漢字漢語も、またわれら士大夫が実践いたしおる孔孟の教えも、伝来の初めには、只今のオランダの文字同様一切不通のものであったに相違ござらぬわ。それを、われらの遠つ祖(おや)どもが、刻苦いたして、一語半語ずつ理解いたして参ったに相違ござらぬ。遠つ祖どもの苦心があればこそ、二千年この方、幾百億の人々が、その余沢に潤うてござるのじゃ。良沢の志は、そこでござる。われらは、この後に来(きた)る者のためには、彫心鏤骨(るこつ)の苦しみも、厭い申さぬ覚悟でござる。杉田氏も、お志をお捨てなされないで、お始めなされい。われらは、今年四十九でござるが、倒れるまで、努めてみるつもりでござる」
http://www.aozora.gr.jp/cards/000083/files/497_19867.html

 もとの部分はこれだね。

一 、翁、かねて良沢は和蘭事に志ありや否やは知らず、久しきことにて年月は忘れたり、明和の初年のことなりしか、ある年の春、恒例の如く拝礼として蘭人江戸へ来りし時、良沢、翁が宅へ訪ひ来れり。これより何方(いずかた)へ行き給ふと問ひしに、今日は蘭人の客屋に参り、通詞に逢うて和蘭のことを聞き、模様により蘭語なども問ひ尋ねんがためなりといへり。翁、その頃いまだ年若く、客気(かくき)甚だしく、何事もうつり易(やす)き頃なれば、願わくばわれも同道し給はれ、ともども尋ね試みたしと申しければ、いと易きことなりとて、同道してかの客屋に罷(まか)りたり。その年大通詞は西善三郎と申す者参りたり。良沢引合(ひきあわ)せにてしかじかのよし申し述べたるに、善三郎聞きて、それは必ず御無用なり、それは何故となれば、かの辞を習ひて理会(りかい)するといふは至つて難(かた)きことなり。たとへば湯水又は酒を呑むといふかを問はんとするに、最初は手真似にて問ふより外の仕方はなし。酒をのむといふことを問はんとするに、先づ茶わんにても持ち添へ注ぐ真似をして口につけて、これはと問へばうなづきて、デリンキと教ゆ。これ即ち呑むことなり。さて、上戸(じょうご)と下戸(げこ)とを問ふには、手真似にて問ふべき仕方はなし。これは数々呑むと数少なく呑むにて差別することなり。されども多く呑みても酒を好まざる人あり、また少なく呑みても好む人あり。これは情(じょう)の上のことなれば、なすべき様(よう)なし。さてその好き嗜(たしな)むといふことはアーンテレッケンといふなり。わが身通詞の家に生れ、幼よりそのことに馴れ居りながら、その辞(ことば)の意何の訳といふことを知らず。年五十に及んでこの度の道中にてその意を始めて解し得たり。アーンとはもと向ふといふこと、テレッケンとは引くことなり。その向ひ引くといふは、向ふのものを手前へ引き寄するなり。酒好む上戸といふも、向ふの物を手前へ引きたく思ふなり。即ち好むの意なり。また故郷を思ふもかくいふ。これまた故郷を手元へ引きおせたしと思ふ意あればなり。かの言語を更に習ひ得んとするには、かやうに面倒なるものにして、わが輩常に和蘭人に朝夕してすら容易に納得(なっとく)し難し。なかなか江戸などに居られて学ばんと思ひ給ふは叶はざることなり。それゆゑ野呂・青木両先生など、御用にて年々この客館へ相越され、一かたならず御出精(ごしゅっせい)なれども、はかばかしく御合点(ごがてん)参らぬなり。そこもとにも御無用のかた然るべしと意見したり。良沢は如何(いかが)承(うけたまわ)りしか、翁は性急の生れゆゑその説を尤もと聞き、その如く面倒なることをなし遂ぐる気根(きこん)はなし、徒(いたず)らに日月を費すは無益なることと思ひ、敢(あえ)て学ぶ心はなくして帰りぬ。
http://ijustat.at.infoseek.co.jp/gaikokugo/rangaku-kotohazime1.html

 厳密に歴史的事実としてとらえるには色々問題があるみたいだけど、今我々が洋書を読んだり外国語を勉強したり研究したりできるのは先人の血のにじむような努力があるからなんだなあ。
 今の中高生生なんか電子辞書をおもちゃのように使っているけれども…いいことなのかどうなのか・・・。