百済語の謎

今からおよそ1700年前に百済(ペクチェ)人が読んでいた「論語」が発見された。

 記録媒体は木簡で、長く切り分けられた木片に墨で書かれている。紙が貴重だった当時、人々は木片に文章を記録したものを束ね、 今日の本のように利用したと推定される。この木簡は、韓国で出土したもののうち、最も古いものだ。

 鮮文(ソンムン)大学・考古学研究所(所長:?亨九(イヒョンク))は27日、「百済が築いた桂陽山城(ケヤンサンソン / 仁川(インチョン)市・桂陽区)で西暦4世紀のものと推定される木簡を発掘した」と発表した。

 5 角形に削られた木簡は、長さ14センチメートル、各面の厚さは1.5センチメートル。記録されている内容は、論語「公冶長第五」の一部で、 孔子が語った弟子に対する人物評が主な内容だ。研究所側は「文字の全部を判読することができず、X線や紫外線撮影により確認した」と明らかにした。

 論語など中国の主要経典がいつ百済に入ってきたのか、文献にははっきりと記録されていない。

 ただし、百済・近肖古(クンチョコ)王24年(西暦369年)に、百済太子(後の近仇首(クンクス)王)が高句麗の故國原(ココクウォン)王との戦争に勝利し、後退する敵を追撃しようとしたところ、莫古解(マッコヘ)という将軍が老子の道徳経を引用し、戦争を止めるよう求めたという記録や、 日本の応神天皇(5世紀初)の時、百済阿直岐(アジキ)や王仁(ワンイン)が太子の教育係になり、経書を教えたという内容などをみると、 4~5世紀の百済の知識人が論語老子などを広範囲に読んでいたことが伺える。

 今回の発掘は、こうした文献の記録を裏付ける最古の考古学的資料となる。

 韓半島から出土した最古の木簡は、1990年代に平壌ピョンヤン)・楽浪(ナクラン)区域から出土した楽浪時代(紀元前1世紀~西暦4世紀初)の木簡で、やはり論語を記録したものだ。

 慶尚(キョンサン)南道・金海(キムヘ)鳳凰台(ポンファンデ)でも、論語が記録された統一新羅(シルラ)時代の木簡が発見されている。

http://japanese.chosun.com/site/data/html_dir/2005/06/27/20050627000061.html

 四世紀は百済高句麗を破り、大いに国威が発揚した黄金時代。文化の隆盛も著しかった
とされている。その時期の文化遺産としては非常に貴重。(私見では応神天皇の在位はもう少し前ではないかと思う。)
 近年流行の東アジアの漢文訓読研究の成果と照らしあわせてみてもきわめて興味深い。
 古代朝鮮語は文献資料がほとんどないことで知られており、多くの研究者にじれったい思いをさせてきたがこれは面白い。無論これらの言語の実態が直ちにわかるわけではないが、漢文訓読の仕方の片鱗でも推測できないものだろうか。